出張所

ツイッターより長い

音楽劇「逃げろ!」

 

https://nigero-stage.com

モーツァルト 3本の傑作オペラの台本を書いた
イタリアの詩人・台本作家
奇想天外な<ロレンツォ・ダ・ポンテ>の
"逃げる"人生を鋭く描く!
ロック・アレンジされた楽曲にのせ、
実力派キャストによる音楽劇!

 

 結末とか、その後味はともかくとして、青春を描いた作品だなと思った。 わたしは佐藤流司さんのオタクを(一応)しているので、原作がない作品(≒非2.5)だと佐藤さんが演じるキャラクターに焦点を当てて見てしまいがちだ。今回もそういう側面があって、主人公であるダ・ポンテ(橋本良亮)の中でモーツァルト佐藤流司)が一生忘れられない、傷にも近い存在になっていてほしいなと思ってしまう。

 

 ダ・ポンテがウィーンに滞在していた時代が作中舞台となっているが、彼の人生自体はその前後もある。特にウィーンからロンドンにわたり、その後アメリカで大学教授になるなんてかなりおもしろいとおもうのだが、今回ロンドン以後のダ・ポンテの生き様については一切触れない。主人公はダ・ポンテであるが、その年代を限定することでモーツァルトに否応もなく存在感を与えている。

 

(別にこの作品においてモーツァルトが主人公のダ・ポンテと同様に重要な立場にあり、出番が多くなることはこんなにいろいろ書き綴らずともメインビジュアルを見れば一目瞭然なのだろうが。)

 

 わたしはダ・ポンテのロンドン以後の人生の詳細を知らない。だからモーツァルトとの出会いがもたらした影響を推し量ることもできない。それでも、ダ・ポンテにとって彼と仕事をしていたウィーンでの時間がその人生の中で強烈なものであってほしいのだ。だって、モーツァルトのことをずっとずっと強くおぼえていてほしいから。

 

 モーツァルトは特別音楽に詳しくなくとも大体の人々が知っているであろう非常に有名な人物だが、作品の中ではダ・ポンテがおぼえていなければ誰が彼をその死後も記憶にとどめてくれるのだろう、と思わせる儚さがどこかにある。苛烈でありながらも時に子どもを思わせる純真さを見せ、周囲の人物をその音楽のみならず彼自身の虜にさえする。時の最高権力者である皇帝・ヨーゼフだってモーツァルトを寵愛した。けれどヨーゼフはモーツァルトの真の理解者ではなかった、と思う。劇中、ヨーゼフはモーツァルトをお茶会に誘う。モーツァルトも喜んでそれに応える。しかし、(2人の立場や身分を鑑みれば当然のことだが)ヨーゼフはあくまでその場のBGMとしてモーツァルトに即興で弾き続けることを求めていただけであった。モーツァルトは終盤、自身が「天才」と呼称され続けたことについて、「目隠ししてピアノを弾いたり、即興をしたり、見せ物と同じだ。」と語る。2人の様子はまるで仲の良い祖父と孫のようでなかなか微笑ましいと感じていたので、その後のこの告白は少し悲しかった。また、『アマデウス』ではモーツァルトを毒殺したとまで言われたサリエリは、当作品の中では似た立場にある年配の者(というか、上司?)として面倒見良くモーツァルトに接した。しかし、少なくとも劇中ではモーツァルトの言動によって彼の思想が変化したとか、そういうことはあまり感じられない。わたしはめちゃくちゃサリエリのことが好きだ。それでも少しひどい言い方をすると、彼はあくまでモーツァルトの異質さを引き立たせるための舞台装置的な部分があったのは否めないと思う。だからと言って彼が平凡である、とかそういう話をするつもりは全くない。要は彼はモーツァルトとの対立構造をつくるために(も)存在するキャラクターなので、モーツァルトの流れを組み自身が変化していく、というのが主にあってはいけないのだ。だから、ダ・ポンテにこそモーツァルトのことを記憶して、彼の中で生かせ続けてほしい。消えない火傷のあとみたいに。

 

 ヨーゼフ死後のモーツァルトを見続けるのはちょっとつらかった。「親父が死んだ、金がない」と言うモーツァルトは少しずつ、陰謀論めいたことを呟き始める。最初は皇帝の代替わり以降の人事発表の場で、先代であるヨーゼフに引き続き今上の小姓となったラザロに対してだった。ラザロはそれに対して「フリーメイソンの方は陰謀論がお好きなようですね」、と皮肉で返す。ここはまだ、その感情を踏まえれば納得いかないことばかりなので理解できる。これだけだったら特別陰謀論が、とかわたしまで思わない。だけど、「最近金がすぐなくなる。誰かの仕業だ」みたいな台詞のところはいたたまれなくなってしまった。実際にはそのお金がすぐなくなるのも自身が派手に使っているからで、彼が疑るようなことは何も起こっていない。あんなに潑剌と周囲を照らしていた彼のそんな姿はどうにも悲しかった。

  ここ3年くらい新型コロナウイルスの流行があり、それに伴いいわゆる「陰謀論」というものにハマる人が増え、Twitter上でも目にすることがある。小さくない社会問題のようで、単なるTwitterでの議論に止まらずその存在自体がニュースになることもある。わたしが印象深く記憶しているのは陰謀論にハマる人が社会的にどの層にいるかについての研究結果をまとめたものだ。要は貧困などに苦しむ社会的弱者がハマっている、という結論だった。それを読んでから、何も言えないやるせなさがずっとどこかにある。お金と仕事に困るモーツァルトのその台詞を聞いて、そのやるせなさを思い出した。どの記事だとかは明確に覚えているわけではないので、全部全部わたしの思い込みなのかもしれないが。

 

 佐藤さん本人が割と作中のモーツァルトの発言みたいなことをちょくちょく言っているし2人はちょっと似ていると思う。佐藤さんが歌っているときなんかはまあその曲や場合にもよるけどめちゃくちゃ命を振り絞っていると感じてしまう。

  サリエリのことが好きだ。Twitterでは敬意を込めて「サリエ〜〜〜↑↑↑リさま」と呼んでいる。

 


 ずっと面倒見が良い素敵なおじさまだった。モーツァルトと芸術について議論しているところなど、言葉を選びながら決してモーツァルトの発言を否定せず、それでも自分の意見を穏やかに語っていた。彼の方が立場は上なのだしもっと好き勝手言っても不都合とかないだろうに、と思うが。彼のそういう話し方はなんだか小学校とかで習う話し合いの仕方みたいだ。意見が異なるときでも決して否定せず、まず受け止めましょう、とか授業でディベートをやるときとかに教わった(気がする)あれだ。皇帝ヨーゼフ死後の人事で彼は変わらず宮廷音楽家のままであり、劇中はそこが最後の出番だった。共に仕事をしたモーツァルトやダ・ポンテは去った。きっと寂しいと思ってくれているのだろう。

 

 ダ・ポンテの、最初は仕事としてオペラを書いていたのにモーツァルトにあてられて気づけば芸術家みたいにオペラに取り組む姿を見て、そういうの、どうにもたまらないよねと勝手に共感している。彼に関しては天才にあてられた人という認識をしている。「天才」を自ら名乗り続けた彼が周囲から「天才れと呼ばれ、求められるままに振る舞ってきたモーツァルトに「お前も天才なんだな」と言われたときの喜びはどれほどだったかな。モーツァルトのような苛烈さはないけれど、エネルギッシュさは果てない。劇中ナンバーである「天才と自称天才」に「天才と天才が向かい合っている」という歌詞がある。歌詞通り2人が向かい合いながら歌うのだが、最初の「天才と」でお互いに相手を指し、次の「天才が」でお互い自分自身を指す。そこがリスペクトを感じられて好きだ。正直2回くらい見ても2人が本当に互いを「天才」だと信じ仕事ができていたか信じきれなかったのだが、それに気づいてすとんと納得した。

 そういえば、彼もヴェネチアから旅路を共にしてきた3人と結局は別れを迎える。カサノヴァやココについてはまあそういうこともあるよな、と思うのだがバレッラは理由が分かりそうでわからないのがもやもやする。亡き弟のように思われていることが嫌だったのかな、どうなんだろうか。この可能性に思い至ったのも2、3公演目とかで、残りの席ではそのときのバレッラの顔を確認できなかったので自分の中ではあまり確信を持てた話ではない。

 

 カサノヴァがいるシーンは台詞とか仕草で遊びがたくさんあって見てて楽しかった。冒頭のシーンなんかは導入部で、背景知識の説明をしているので内容としては特別面白いことはない。しかし、繰り返し登場する固有名詞にポーズがついていたりして、テンポがいい場面になっていた。あそこからワクワク感が増していくのでけっこう好きだった。ダ・ポンテにウィーンに行ったとき一緒に働くのはサリエリよりモーツァルトの方がいいんじゃないのか、と尋ねるところなどその後答えるダ・ポンテも含めて短いスパンでくるくる動くので思わずにやにやしてしまう。カサノヴァが尋ねるときのポーズは既に何回か繰り返しているのもあってまあまあこなれている感じがしているのに対して、ダ・ポンテはダイナミックにポーズを繰り出すのだ。かわいい。

 好きなところ

サリエリ〜〜〜!!!!(手を振る)よりモー↑ツァルト!(まわる)のほうがいいんじゃないか?」

「いやそれでも俺はモー↑ツァルト!(まわる)よりサリエリ〜〜〜!!!!(手を振る)と組む!」

 

 冒頭で終わり方はともかく、みたいなことを書いてしまったけど青春って楽しく明るく終われるとは限らないな、多分。夕焼けみたいな最後の場面を思い出して悲しくなるけど、その悲しさがふんわり胸に広がって終わる舞台だった。

 書き残した部分がある気もするが、ひとまず最後にこのブログを書いている途中に見つけたTweetを貼って終わる。